本記事は50社以上の成長支援を手がけるKPIコンサル・岩田圭弘が解説します。
「既存顧客の単価を上げろ」。経営会議でこの号令が出ると、翌月の営業会議には値上げの交渉リストと、期末に向けた上位プランの提案件数が並ぶ。ところが半年経っても顧客単価は思ったほど動かず、動いた顧客の一部は翌期に元のプランへ戻っていく。原因は営業の押しの弱さではない。アップセルを「単価を上げる交渉」として扱い、顧客の側で起きている変化を数えていないからだ。この記事では、顧客単価という遅行指標を、営業が今週動かせる行動KPIまで分解する方法を解説する。
アップセルとは——値上げとも、クロスセルとも違う
アップセルとは、既存顧客が同じ商材の上位グレード・追加数量・適用範囲の拡大を選ぶことを指す。KPIとして測るときは、次の形にする。
アップセル額 = 同一顧客の今期取引額 − 前期取引額(価格改定分を除く)
ここで最も重要なのは「価格改定分を除く」という一文だ。
- 値上げは、顧客が受け取る価値は同じまま、価格を変えることだ。決めるのは経営であり、営業の行動の成果ではない
- アップセルは、顧客が受け取る価値の量が増え、それに見合って取引額が増えることだ。決めるのは顧客であり、営業はその判断の材料とタイミングを設計する
同じ「単価が上がった」でも、この2つは原因も打ち手もまったく違う。混ぜて測った瞬間、営業が何をすれば数字が動くのかが見えなくなる。
なお、既存顧客の別部署や別商材へ広げる動きはクロスセルと呼ぶ。本記事は同じ顧客・同じ商材を縦に伸ばす動きに閉じる。サブスクリプション事業の収益指標(NRR・Expansion等)としての測り方はSaaS収益KPI完全ガイドに委ね、ここでは営業が誰に・いつ・何を提案するかという行動の設計だけを扱う。
顧客単価だけを見ても数字が動かない理由
顧客単価は典型的な遅行指標だ。今月の数字は、数ヶ月前に顧客の中で起きた利用の変化と、そのときに提案できたかどうかの結果でしかない。数字が下がったと分かった時点で、提案すべきタイミングはすでに過ぎている。
加えて、顧客単価には構造上の罠が2つある。
罠1:平均値は、小口顧客が離れても上がる。
平均顧客単価は売上÷顧客数なので、単価の低い顧客が離れれば、誰にも提案していないのに平均は上がる。数字だけを見ると「単価向上の施策が効いた」ように見えるが、実際には売上も顧客基盤も縮んでいる。
罠2:複数の原因が1つの数字に混ざる。
顧客単価の変化には、価格改定、値引き幅の縮小、上位グレードへの移行、数量の追加、顧客構成の変化が同時に入っている。どれが動いたのかを分けない限り、「来月は何を増やすか」は決められない。
したがって、アップセルを管理したいなら、平均顧客単価ではなく「同じ顧客の取引額が、価格改定以外の理由でどれだけ変わったか」を測る必要がある。既存顧客からの利益を財務指標の体系のどこに置くかは財務KPI設計ガイドで整理している。
3層フレーム上の位置づけ
KPIはKGI(最終成果)→中間KPI(遅行指標)→先行KPI(行動指標)の3層で設計する。考え方はKGI・KPI・KDIの違いで解説している。アップセルに関わる指標を並べると次のようになる。
| 層 | 指標 | 何が分かるか | 評価に使ってよいか |
|---|---|---|---|
| KGI(最終成果) | 既存顧客からの粗利額 | 既存顧客との取引が事業にどれだけ貢献したか | 使ってよい。新規とは別枠で置く |
| 中間KPI(遅行) | 同一顧客のアップセル額(価格改定分を除く) | 顧客が上位グレード・追加数量を選んだ結果 | 条件付きで使ってよい。担当顧客の規模の差を補正する |
| 中間KPI(遅行) | アップセル後の定着率 | 上位グレードに移った顧客が、その範囲を使い続けているか | 管理に使う。アップセル額とペアで見る |
| 先行KPI(行動) | 拡張シグナルの検知件数 | 提案の機会がいくつ発生したか | 管理に使う |
| 先行KPI(行動) | シグナルに対する提案実施率 | 発生した機会のうち、期限内に提案できた割合 | 立ち上げ期は評価に入れて定着させる。定着後は管理へ移す |
評価と管理の分け方はKPIを人事評価に使うと数字が歪むで詳しく扱っている。金銭報酬を紐づけてよいのは結果側のアップセル額までで、提案実施率に歩合を付けてはいけない。報酬との線引きは営業インセンティブ制度の設計を参照してほしい。
提案実施率のような行動量は、本人の意思でこなせる。だから仕組みを立ち上げる時期には、あえて評価に入れて「シグナルが出たら提案する」を習慣にするのが有効だ。ただし定着したあとも量だけを見続けると、見込みの薄い顧客にまで提案が積まれる。定着後は「提案の量」と「提案経由の採用・定着」の2軸に切り替える。行動量の扱い方の全体像は営業日報は何のためにあるのかで解説している。
分解して先行指標に落とす
ここがこの記事の本体だ。アップセル額は、次の4つの掛け算に分解できる。
アップセル額 = 拡張シグナルが出た顧客数 × 提案実施率 × 採用率 × 1件あたりの増額
分解すると、「アップセルが伸びない」の中身が4つの別々の問題に分かれる。分解の手順そのものはKPIツリーの作り方で解説している。
| 要素 | 何を表すか | 紐づく先行KPI | 伸びないときに疑う場所 |
|---|---|---|---|
| 拡張シグナルが出た顧客数 | 提案すべき機会の数 | シグナル検知件数 | シグナルを定義していない。検知する人が決まっていない |
| 提案実施率 | 機会のうち、実際に提案した割合 | シグナル発生から提案までの日数、期限内提案率 | 検知した人から提案する人へ情報が渡っていない |
| 採用率 | 提案のうち、顧客が採用した割合 | 決裁者への提示率、利用実績を根拠にした提案の割合 | 顧客の利用実態を根拠にせず、売り手の都合で提案している |
| 1件あたりの増額 | 上位グレード・追加数量の大きさ | 提案時に示した選択肢の数 | 提案できる「次の段」が商材側に用意されていない |
最下段は営業の行動ではなく、商材と料金の設計の問題だ。上位グレードや追加数量の段が粗すぎると、顧客は「今の規模には過剰だ」と判断して見送る。ここが詰まっているなら、営業に発破をかけても数字は動かない。
この分解を運用に落とす手順は、次の5ステップになる。
Step 1:価格改定分を切り分け、同一顧客ベースで測り直す
まず測り方を直す。平均顧客単価をやめ、前期から取引が続いている顧客だけを対象に、取引額の変化を「価格改定」「グレード変更」「数量変更」に分けて記録する。この切り分けができていないと、以降のすべての数字が信用できない。
Step 2:「拡張シグナル」を定義する
アップセルの機会は、営業の予算表ではなく顧客の利用の変化から生まれる。何が起きたら提案の機会と数えるのかを、先に言葉で決める。
- 契約した数量・枠の上限に、利用が近づいている
- 利用している人数や部署が、契約時より増えている
- 導入時に置いた目的が達成され、次の目的が語られ始めている
- 顧客側の予算策定期、または契約更新の一定期間前に入った
- 顧客側で組織変更・拠点の追加・担当者の交代が起きた
シグナルは3〜5個に絞る。10個並べると、誰も検知しなくなる。
Step 3:シグナルの「検知者」と「提案者」を分けて決める
シグナルに最初に気づくのは、営業ではないことが多い。納品担当、サポート、カスタマーサクセスといった、日常的に利用実態を見ている人だ。一方で、提案と条件交渉の権限を持つのは営業である。この2者が別人であることを前提に、誰が検知し、どの経路で、誰に、何日以内に渡すかを決める。 CSと営業で役割を分けた実例はカスタマーサクセスKPI完全ガイドのQ7が参考になる。
Step 4:提案の「窓」を決める
シグナルが出てから提案するまでの期限を決める。利用が上限に近づいた顧客を放置すれば、顧客は運用でしのぐ方法を自分で見つけてしまい、機会そのものが消える。
逆に、期末だから、予算が足りないから、という売り手の都合を提案のきっかけにすることは禁止する。きっかけが顧客側にない提案は、採用されにくいだけでなく、次の面談を避けられる原因になる。
Step 5:採用のあとの「定着」まで追う
アップセルは受注した時点で終わりではない。上位グレードに移った顧客が、その範囲を実際に使っているかを数ヶ月追う。使い切れていない顧客は、次の更新でダウングレードするか、取引そのものを見直す。アップセル額とアップセル後の定着率を、同じ帳票に並べて見るのがこのステップの要点だ。
アップセルで見る指標の一覧
アップセルに関わる指標を、種別と「この指標で分かること」で一覧にする。目安値の列は意図的に置いていない。 採用率や定着率の水準は、商材に用意された上位グレードの段の数、契約期間、顧客の利用期間で大きく変わる。他社や業界の数字と比べても打ち手は出ないので、自社の推移と、担当者間・顧客セグメント間の差で見る。
| 指標 | 種別 | この指標で分かること |
|---|---|---|
| 既存顧客からの粗利額 | KGI(遅行) | 既存顧客との取引が事業にどれだけ貢献したか |
| 同一顧客のアップセル額(価格改定分を除く) | 中間KPI(遅行) | 顧客が上位グレード・追加数量を選んだ結果 |
| アップセル後の定着率 | 中間KPI(遅行) | 上位グレードに移った顧客が、その範囲を使い続けているか |
| 継続顧客数 | 中間KPI(遅行) | 単価を追う裏で、小口顧客が離れていないか |
| 上位グレードの値引き率 | 中間KPI(遅行) | 単価の上昇が、値引きで作られていないか |
| 拡張シグナルの検知件数 | 先行KPI(行動) | 提案の機会がいくつ発生したか |
| シグナル発生から提案までの日数 | 先行KPI(行動) | 検知した人から提案する人へ、情報が滞りなく渡っているか |
| シグナルに対する提案実施率 | 先行KPI(行動) | 発生した機会のうち、期限内に提案できた割合 |
| 決裁者への提示率 | 先行KPI(行動) | 提案が、採用を判断する人に届いているか |
| 利用実績を根拠にした提案の割合 | 先行KPI(行動) | 売り手の都合ではなく、顧客の利用実態から提案しているか |
単独で追うと何が壊れるか
アップセルに関わる指標は、どれも単独で追うと別の数字を壊す。ペアで置く相手を最初から決めておく。
| 単独で追う指標 | 壊れる相手 | 何が起きるか | ペアで置く指標 |
|---|---|---|---|
| アップセル額 | アップセル後の定着 | 使い切れない上位グレードが売られ、翌期にダウングレードや解約で戻ってくる | アップセル後の定着率(数ヶ月後の利用状況) |
| 平均顧客単価 | 顧客数・小口顧客の継続 | 小口顧客への対応が後回しになり、離れても平均が上がるので問題が見えない | 継続顧客数、同一顧客ベースの取引額の変化 |
| 提案件数 | 顧客との接点 | 会うたびに提案され、顧客が定例や面談を避けるようになる | シグナルに対する提案実施率(シグナルのない提案は数えない) |
| 単価の上昇幅 | 粗利 | 上位グレードを値引きで売り、単価は上がっても利益が増えない | 既存顧客からの粗利額、上位グレードの値引き率 |
とくに1行目は見落とされやすい。アップセル額が伸びた四半期の翌期に、同じ顧客からのダウングレードが増えていないかを必ず確認する。
