本記事は50社以上の成長支援を手がけるKPIコンサル・岩田圭弘が解説します。
既存顧客へのクロスセルを伸ばそうと、多くの組織はまず「他事業の商材勉強会」を開く。だが半年経っても、クロスセルの件数はほとんど変わらない——。原因は営業の提案力ではない。他事業に渡すべき顧客情報が、そもそも流れていないからだ。この記事では、クロスセルを「提案のスキル」ではなく「情報連携の仕組み」として設計する方法と、そのためのKPIを解説する。
クロスセルとは何か——アップセルとの違い
図:クロスセル(横に広げる)とアップセル(縦に伸ばす)の違いと発生タイミング
クロスセルとは、既存顧客に対して別の商材・別の事業のサービスを提供することを指す。同じ顧客の別部署・別拠点へ広げるケースも含む。つまり横に広げる動きだ。
これに対してアップセルは、同じ顧客・同じ商材の上位プランや追加ライセンスへと縦に伸ばす動きである。
実務上重要なのは、この2つは発生するタイミングが違うという点だ。
- クロスセルのほうが早く決まる。 別部署に同じような課題があれば、導入実績を根拠にすぐに検討が始まる
- アップセルは後になる。 顧客が既存の商材を一定期間活用し、物足りなさや拡張の必要性を感じてから発生する
したがって、既存顧客からの売上を伸ばしたいとき、先に手をつけるべきはクロスセルであることが多い。件数としても、一般にクロスセルのほうが多くなる。
なお、SaaSの収益指標としてのNRRやExpansionの考え方はSaaS収益KPI完全ガイドで解説している。本記事は収益の測り方ではなく、営業現場で何を数え、何を仕組みにするかに絞って話を進める。
クロスセルが伸びない3つの原因
原因1:事業部間で顧客情報を渡す仕組みがない
最大の原因はこれだ。クロスセルは、A事業の担当者が顧客先で掴んだ情報(別部署でこんな困りごとがあるらしい、今期にこういう投資があるらしい)がB事業に渡って初めて始まる。
この情報を渡すルートが存在しない組織では、クロスセルは運と相性の話になる。仲の良い担当者同士のところだけで時々発生し、組織としては再現しない。
逆に、ここを仕組みにしている企業もある。筆者が在籍していたキーエンスには、社内IDと呼ばれる制度があった。商品ラインAの担当者が、訪問先でB商品に関わる話題を掴んだら、それをB側へ発信する。そしてその情報が受注に結びついたとき、発信した側にインセンティブが戻る。担当者の善意や人間関係に依存させず、情報が流れる経路と、流した人への見返りの両方を、先に設計してあったということだ。
原因2:顧客の情報を理解しないまま提案に行っている
仕組みがないまま「とにかく別事業の商品も提案してこい」と号令をかけると、この失敗が起きる。顧客がすでに何を導入していて、どこで困っていて、誰が決めるのかを知らない担当者が訪問すると、商談は進まないばかりか、既存の信頼を損ねる。
顧客から見れば同じ会社の人間であり、「前の担当に話したことを、なぜこの人は知らないのか」という印象になる。売った担当者からの情報連携を前提にしないクロスセルは、やらないほうがましだ。
原因3:クロスセル率だけを見て、手前を見ていない
クロスセル率は結果指標だ。低いことは分かっても、なぜ低いのかはこの指標だけでは分からない。提案して負けているのか、そもそも提案する機会が生まれていないのかで、打ち手は正反対になる。
実際に分解してみると、多くの組織で詰まっているのは提案の側ではなく、その手前の「情報が何件渡ってきているか」の側だ。
3層フレームで設計する
図:クロスセルの3層設計(KGI→クロスセル率→情報連携件数)
KPIはKGI(最終成果)→中間KPI(遅行指標)→先行KPI(行動指標)の3層で設計する。クロスセルをこの3層に置くと、どこを管理すべきかがはっきりする。
| 層 | 指標 | 誤った使い方 | 評価に使ってよいか |
|---|
| KGI(最終成果) | 既存顧客からの売上・粗利額 | 新規と同じ枠で見てしまう | 使ってよい。新規とは別枠で置く |
| 中間KPI(遅行) | クロスセル率 | これだけを見て「提案力を上げろ」と言う | 条件付き。分母の定義を先に固めること |
| 先行KPI(行動) | 他事業への情報連携件数 | 数えていない。ほとんどの組織でここが空白 | 原則は管理。ただし立ち上げ期に限り、文化を作るために行動評価へ入れるのは有効 |
この表で最も重要なのは最下段だ。多くの組織は「情報連携が何件渡っているか」を数えていない。 数えていないから、クロスセルが伸びないときに「提案力の問題」としか言えなくなる。
主要指標と「評価に使ってよいか」
図:クロスセルの主要7指標と、先行/遅行・評価/管理の分け方
| 指標 | 定義 | 種別 | 評価/管理 | 理由 |
|---|
| 既存顧客からの粗利額 | 既存取引先経由の粗利 | 遅行(KGI) | 評価 | 成果そのもの。新規とは別枠で評価する |
| クロスセル率 | 対象顧客のうち他事業の商材を導入した割合 | 遅行(中間) | 条件付き評価 | 分母(どの顧客を対象に含めるか)を本人が決められると操作できる |
| 他事業への情報連携件数 | 自分の顧客情報を他事業に渡した件数 | 先行(行動) | 管理 | 本記事の主対象。立ち上げ期は行動評価に入れてよいが、定着後は量だけ見ると中身のない連携が増える |
| 連携からの商談化件数 | 渡った情報のうち実際に商談になった件数 | 遅行(中間) | 管理 | 連携の「質」を見る指標。量だけ追うのを防ぐ |
| 連携経由の受注率 | 連携された案件の受注率 | 遅行(中間) | 管理 | 高ければ連携の本数を増やすのが正解だと分かる |
| 顧客内シェア | その顧客の関連支出に占める自社割合 | 遅行(中間) | 管理 | 推定値になるので評価には向かないが、伸びしろの判断に使える |
| 他事業の商材研修の受講率 | 勉強会に何人出たか | 先行(行動) | 管理(優先度低) | 受講率とクロスセルは連動しにくい。これを主指標にしない |
最後の行は、多くの組織が最初に手をつける施策だ。だが商材知識を入れても、顧客情報が流れなければ提案の機会は生まれない。研修は連携の仕組みを作ったあとにやるのが順番として正しい。
情報連携を先行KPIに置くと、何が見えるか
図:連携が起点のファネルと、クロスセル率の伸びしろ
情報連携件数を数え始めると、クロスセルの議論の質が変わる。
筆者の実務経験では、他事業から顧客情報が連携されてきた案件の受注率は、おおむね30%前後になる。これは新規開拓の受注率と比べればかなり高い水準だ。既存取引の実績と信用があり、かつ困りごとが事前に分かっている状態で入るからだ。
この数字が意味するのは、クロスセルのボトルネックは提案の勝率ではなく、連携の本数だということである。受注率が3割あるのに件数が伸びないなら、磨くべきはトークではなく、情報が流れる経路のほうだ。
連携の仕組みを作り、連携件数を週次で見る運用に切り替えると、クロスセル率が5%前後の水準から13〜15%程度まで上がることは十分にありうる。これも筆者の実務経験にもとづく目安であり、商材構成や顧客層によって変わるが、桁が変わる規模の伸びしろがあるという点は共通する。
どんな情報を渡すと商談になるのか
どんな情報を渡せばクロスセルにつながるのか。これは「あるべき姿」から逆算しても出てこない。連携が実を結んでいる担当者と、連携しても商談にならない担当者の差分を比較することでしか掴めない。
ここで比較の設計を先に決める。上位者と下位者の2群だけを並べても答えは出ない。 差が大きすぎて、何が効いているのか絞り込めないからだ。必ず中間層を入れる。 中間層が「やっているのに成果が出ていない」変数は、KSFではない。この判別ができて初めて候補が絞り込める。
件数は、商談や連携の型を見つける目的なら、上位・下位それぞれ5件程度を並べると傾向が出はじめる。最初から全件を見ようとすると着手できない。
材料を並べる作業自体はSFAの記録やAIで速くできるが、そこから「何が連携の質を分けているのか」を1つの型として言語化する工程は人間の仕事だ。「良い連携は情報が詳しい」で止めれば傾向の羅列にすぎない。「良い連携には、先方の担当者名と、その人が今期何をやろうとしているかが入っている」まで落として初めて、他の人が真似できる型になる。
そして最も注意すべきなのは、比較で差が出ても、それが原因とは限らないという点だ。実務で最も多い誤診は、連携の書き方や商談の質を磨いているのに売れない、というケースである。このときの真因は、ほぼターゲットにある。 当たるべき相手に当たっていなければ、型をいくら磨いても数字は動かない。KSFを型に落とす前に、ターゲットが合っているかを先に確かめる。
比較の進め方そのものはKPI達成率の計算方法とベンチマーク|上がらない本当の原因とKSFの見つけ方で解説している。
情報連携の仕組みを作る5ステップ
図:情報連携の仕組みを作る5ステップ
Step 1:連携の定義を決める
何を持って「連携1件」と数えるのかを先に決める。ここが曖昧だと、数値は集まるが使えない。最低限「先方の部署・担当者・困りごと・接触の可否」の4つが埋まっているものを連携とする、といった形で基準を下ろす。
Step 2:連携を渡す経路を一本に決める
メール、チャット、SFAのレコード。手段は何でもよいが、経路を複数用意すると数えられなくなる。数えられないものはKPIにならない。一本に絞る。
Step 3:受け手側の応答をルール化する
渡しても反応がない状態が数回続くと、連携は止まる。何日以内に、誰が、どう返すのかを先に決める。 連携は送る側の善意ではなく、応答の確実さで続く。
Step 4:連携した側の扱いを決める
連携した担当者に何も戻らなければ、連携は「やっても報われない仕事」になる。ここでの要点は、報酬を紐づける対象を「渡した件数」ではなく「その連携が受注に結びついたかどうか」に置くことだ。
件数そのものに歩合を付ければ、中身のない連携が量産され、受け手側の工数だけが増える。一方、受注という結果に対して払う限り、報酬は連携の質を上げる方向に働く。前述のキーエンスの社内IDがまさにこの形で、発信した情報から売れたときに発信者へ戻る設計になっていた。
そのうえで、仕組みの立ち上げ期に限っては「月◯件渡したら加点」といった行動評価を足し、連携そのものを習慣づける。定着したら量の加点は外し、連携経由の受注で見る形に切り替える。
Step 5:連携件数と商談化件数を週次で並べて見る
件数だけを見ると中身のない連携が増える。商談化件数とセットで並べ、件数が少ないのか、質が低いのかを毎週判別する。この2つの数字はレビュー会議の議題に置き、評価面談には持ち込まない。
連携を指標に置くと、何が変わるのか
図:クロスセル率だけを見ているときと、連携件数を先行KPIに置いたあとの違い
| 論点 | クロスセル率だけを見ているとき | 連携件数を先行KPIに置いたあと |
|---|
| 伸びないときの診断 | 「提案力が足りない」で止まる | 件数か質か、どちらが詰まっているかを特定できる |
| 打ち手 | 商材研修をやる | 連携の経路と応答ルールを直す |
| 担当者の行動 | 自分の数字に関係ないので後回しにされる | 週次で見られるので、気づいた情報をその場で渡す |
| 商談の質 | 顧客情報を知らないまま訪問する | 困りごとを把握した状態で入るので受注率が高い |
クロスセルは、提案力を上げる前に、情報が流れる経路を作ると伸びる——これが設計の結論だ。
よくある失敗3パターン
失敗1:顧客の情報を理解せずに提案に行く
最も損害が大きい失敗だ。顧客から見れば同じ会社の人間なので、情報が共有されていないことはそのまま不信になる。売った担当者からの情報連携なしにクロスセルを仕掛けないことをルールにする。
失敗2:連携件数を「ずっと」量のまま評価し続ける
連携件数のような行動量は、本人が意思でこなせる。だからこそ仕組みを立ち上げる時期には、あえて行動評価に入れて文化として定着させるのが有効だ。「月◯件渡したら加点」という形なら、やろうと思えば誰でもできる。
問題は、定着したあとも量だけを見続けることだ。量は頑張れば作れるので、中身のない連携が量産され、受け手側の工数だけが増える。定着後は「発信(量)」と「売り(連携経由の商談化・受注)」の2軸に切り替える。
実際、自分の営業力では売れるが情報発信経由では売れない人もいれば、本人の受注実績はそこまでではないのに情報発信経由ではよく売れる人もいる。この2つは別の能力なので、片方だけを見ていると評価も改善も外す。評価と管理の分離についてはKPIを人事評価に使うと数字が歪むで解説している。
失敗3:新規と同じ枠で評価し、既存が痩せる
新規受注にだけ報奨が付けば、既存顧客の深耕は「やっても報われない仕事」になる。クロスセルを伸ばしたいなら、既存顧客からの拡大額を新規とは別枠の成果として置く。報酬設計の副作用は営業インセンティブ制度の設計で詳しく扱っている。
よくある質問(FAQ)
Q1. クロスセルとアップセル、どちらから手をつけるべきですか?
A. 多くの場合クロスセルからです。クロスセルは別部署に同様の課題があればすぐに検討が始まるのに対し、アップセルは顧客が既存商材を一定期間活用してから発生するため、どうしても後になります。早く数字にしたいならクロスセルを先に設計してください。
Q2. 情報連携件数は、月に何件を目標にすればよいですか?
A. 絶対値の目標を先に置くのは勧めません。まず1ヶ月数えて現在地を知り、連携経由の受注率と掛け算して「何件あれば何件の受注になるか」を出してから逆算してください。目標値の根拠がないと、現場は数を作りにいきます。
Q3. 商材研修や勉強会は意味がないのですか?
A. 意味はありますが、順番が逆です。連携の仕組みがない状態で研修をやっても、提案の機会自体が生まれないので知識は使われずに忘れられます。経路を作って、商談が発生し始めてから研修をやると定着します。
Q4. 事業部間の仲が悪く、情報が流れません。
A. 関係性の問題に見えて、実態は連携した側に何も戻らない設計であることがほとんどです。連携しても進捗が見えない、受注しても報告がない、自分の評価には一切関係ない——この3つが揃うと連携は止まります。Step 3 と Step 4 から直してください。
Q5. クロスセル率の分母はどう定義すればよいですか?
A. 先に定義を固めてください。分母(対象顧客の範囲)を現場が決められる状態でこの率を評価に使うと、見込みのない顧客を分母から外す操作が起きます。取引額や業種など、本人が動かせない基準で分母を確定させてください。
まとめ
クロスセルが伸びないのは、営業の提案力が低いからではない。他事業に渡すべき顧客情報が流れていないからだ。
- クロスセルの本体は「事業部間の情報連携の仕組み」。仕組みがない組織では、クロスセルは運と相性の話になる
- 見るべきはクロスセル率だけでなく、手前の「情報連携件数」。ここを数えていないから、伸びない理由を提案力のせいにしてしまう
- 連携された案件の受注率は高い。だからボトルネックは提案の勝率ではなく、連携の本数にある
- 連携件数は、立ち上げ期だけ行動評価に入れる。定着後は「発信(量)」と「売り(連携経由の受注)」の2軸に切り替える
- 顧客の情報を理解せずに提案に行かない。売った担当者からの連携を前提にする
クロスセルを「提案のスキル」の問題として扱っている限り、数字は動かない。情報が流れる経路を設計し、その本数を週次で見る。ここから始める。
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